合格祈願・学業成就の神様 菅原道真公

菅原道真と894年に起きた遣唐使廃止が分かるテーマ3つ

菅原道真と894年に起きた遣唐使廃止が分かるテーマ3つ

こんな疑問にお答えします↓
  • 894年、誰が遣唐使を廃止にした?
  • そもそも遣唐使ってなんですか?
  • 白紙に戻した理由と結果はいかに!

Mr.michizane

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西暦894年、唐の国との西暦630年から始まった貿易に終止符が打たれました。
この遣唐使、日本は対等な取引のつもりでしたが、中国から見れば主国に対しての従属国からの貢ぎ物の運搬に過ぎませんでした。

❝白紙に戻そう遣唐使❞は、あまりにも有名な語呂合わせ。
894(はくし)年、菅原道真が天皇に遣唐使の廃止を進言、採用されました。

 

こんにちは。
(株)合格のヒロキタ・マイです。

神社仏閣が好きすぎて、太宰府天満宮の参道にある会社に就職した個性的すぎるアラフォー女子です。

894年に菅原道真すがわらのみちざね公が遣唐使を廃止した背景などについて考察していきます。

西暦894年、遣唐使の廃止を決定したのは菅原道真!

歴史の年表を覚えるとき、「894年、白紙に戻そう遣唐使」という語呂ごろ合わせは、ハマり過ぎて忘れたくても忘れることができないほどですよね。
「1192年、いい国作ろう鎌倉幕府」に勝るとも劣らない秀逸な語呂合わせですね。

さて、そんな遣唐使の廃止、提案したのは菅原道真公でした。
894年8月21日、菅原道真公は遣唐使の、しかも大使に任命されました。
国の代表として他国に派遣されるのですから、大変名誉なことで、現代でも日本の大使に任命される人というのは、非常に優秀ですよね。

そんな遣唐使の大使に任命されてから一カ月もたたないうちに、菅原道真公は天皇に願い出ました。
同年9月14日のことです。

遣唐使はもうやめましょう。 By菅原道真

630年から続いた200年以上も続いた唐への派遣を、突然中断しようというのです。

この提案は天皇から公家たちに回され、結果はご存じのとおり廃止になりました。

厳密には、いったん中断しようという提案だった可能性もあるのですが、その後も再開されなかったことから、あいまいなまま現在に伝わっています。

犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)という人が最初の遣唐使で、この人は最後の遣隋使けんずいしでもあります。とはいえ、この方を知っている人の方が少ないのではないでしょうか?

しかし!過去に遣唐使に派遣された人物の中には、誰もが知っている有名人がたくさんいます。

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遣唐使の目的と人物一覧。過去にはあの有名人も!

菅原道真と894年に起きた遣唐使廃止が分かるテーマ3つ
奈良の遣唐使船

遣唐使はスタートから終了までの264年間に、20回も派遣されました。

13.2年に1度のペースで、当時のあまり安全とは言えない船で、しかも自然環境にかなり依存したかじ取りで中国までいっていたと思うと、私だったら必死で断ります。

(絶対に選ばれることはありませんが笑)

では、以下に遣唐使のリストをご案内します。

遣唐使の人物一覧
回数 出発 帰国 使節
第1回 630年 632年 最初の遣唐使・犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)(大使)/最後の遣隋使
第2回 653年 654年 第1船 吉士長丹(大使)、吉士駒(副使)/第2船 高田根麻呂(大使)、掃守小麻呂(副使)
第3回 654年 655年 高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使)
第4回 659年 661年 坂合部磐鍬(石布)(大使)、津守吉祥(副使)
第5回 665年 667年 守大石(送唐客使)・坂合部磐積・吉士岐彌・吉士針間
第6回 667年 668年 伊吉博徳(送唐客使)
第7回 669年 不明 河内鯨(大使)
第8回 702年 704年 粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使、赴任せず)、坂合部大分(副使、のち大使)、巨勢邑治(大位、のち副使)
第9回 717年 718年 多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(藤原宇合)(副使)
第10回 733年 734年 多治比広成(大使)、中臣名代(副使)
第11回 746年 石上乙麻呂(大使)
第12回 752年 754年 藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使)
第13回 759年 761年 高元度(迎入唐大使)、内蔵全成(迎入唐使判官)
第14回 761年 仲石伴(大使)、藤原田麻呂(副使)
第15回 762年 中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使)
第16回 777年 778年 小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)/佐伯今毛人(大使)、大伴益立(副使)、藤原鷹取(副使)
第17回 779年 781年 布勢清直(送唐客使)
第18回-1 804年 805年 藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)
第18回-2 805年 806年 高階遠成(遣唐使判官)
第19回 838年 839年 藤原常嗣(大使)/小野篁(副使)
第20回 894年 菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使)

大使・副使級の人だけを乗せていますが、随行者としては、第18回の804年、あの弘法大師空海が!

恐らく、唯一私費しひで参加していた空海さんは、当時の唐の国の密教のトップである恵果けいか和尚から、すべての秘法を授って跡継ぎにまで任命されます!

この辺りは本サイトからずいぶん逸れてしまうので、機会が与えられるなら別のときに・・・

おまけみたいな紹介ですが、さらにあの比叡山延暦寺ひえいざんえいんりゃくじを開いた天台宗の開祖・伝教大師最澄さいちょうも同船していました。

遣唐使の目的は、当時の中国の政治の仕組みや歴史ある文化、進んだ技術、仏教の教えなどを集めて学んで持ち帰ること。

また、日本からも様々な原材料などを持ち込んで、代わりに価値のある陶器などの工芸品や、衣類や織物などをもらうことでした。

日本に持ち帰った中国からの返礼品は、正倉院しょうそういんなどの所蔵される場合や、莫大な利益を生み出す原資となっていたようです。

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遣唐使を白紙に戻した理由とその人物の想いがすごい!

894年の9月30日、遣唐使の唐への派遣は正式に中止が発表されました。

実は、菅原道真公が遣唐使の中止を提案する前から、遣唐使の廃止案が浮上していたのでは?というお話もあります。

廃止になることは決まっているが、名誉ある肩書なので授与だけはしておこうという思惑がどこかにあったのかもしれません。

さて、遣唐使が白紙に戻された理由としては、以下のものが挙げられます。

  • 当時の唐は内乱が激化しており、命の危険があるし、日本が戦いに巻き込まれかねないから。
  • 中国に渡るだけでも相当危険であり、過去の航路では何人もの遣唐使が亡くなっているから。

こんなに危険なのに、いく意味はないよね、そんな理由を菅原道真公は宇多天皇や公家たちに突き付けたのです。

以降の内容はある意味で個人的な考えも含みます。

当時、中国だけでなく、アジアの色々な国から貿易と称して多くの外国人が日本に来ていました。

その中には、日本の風土や伝統から見るとありえないような野蛮な行いをするものもいて、国内の治安が悪化していたようなのです。

また、その貿易で、私腹を肥やす(国のためでなく、自分がお金を稼ぐために外国人を招き入れる公務員のイメージ)人間もいたようなのです。

菅原道真公はご自身が詠んだある詩の中で、とても印象的な言葉を選び使っています。

このたびは ぬさも取りあへず 手向(たむけ)
紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに

この詩の中の「神のまにまに」という部分なんですが、これは神様の御心みこころのままにという意味です。

菅原道真公にとって、例えば政治とは❝良心に従って行われるべき❞だったのではないでしょうか?

そのために、国内が乱れることに目をつむることができなかった・・・

外国人や私腹を肥やす者が現れて、国内が乱れる原因となるから遣唐使を廃止した!

これが真の理由かもしれません。

そして、もしかしたら、その善意ある行動が、後に敵となる人間の反感を買ってしまったとしたら・・・

妄想に近く、史実に基づいていないかもしれませんので、受験生の方は無視して下さいね!※この内容は別の記事でも書いているので重複しているところもあります。

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まとめ

菅原道真公は894年に遣唐使の派遣中止を宇多天皇に提案し、結果としてそれ以降は遣唐使はなくなりました。

遣唐使が廃止になったことは、日本にとって良かったのかそうでないのか。

今となってはだれにも分かりません。

徳川幕府は数百年も鎖国をして、日本がもっとも粋な時代を作り出したと言われています。

現代も、周辺諸国との国境を無くしたほうがよいと主張する過激な評論家は少なからずいるようです。

進んだ他国の文化を上手に取り入れながら、自国の良さはずっと失うことなく、そして皆がWIN-WINになるような生き方ができたら・・・

もしかしたら、菅原道真公はそんな未来を見ていたのかも知れません。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

(株)合格

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