合格祈願・学業成就の神様 菅原道真公

菅原道真を太宰府に左遷!昌泰の変の原因と結果をわかりやすく解説!

こんな疑問にお答えします↓
  • 昌泰の変はなぜ起きた?
  • 昌泰の変の首謀者は誰なのか?
  • 左大臣と右大臣は年の差何歳!?

Mr.michizane

(株)合格(@gokaku_company)です。
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昌泰の変しょうたい へんとは、西暦901年に起こったできごとで、藤原時平ふじわらのときひら醍醐だいご天皇に報告した作り話によって、菅原道真とその一族が処罰された衝撃的な事件です。

では昌泰の変は、いったい何が原因で起こったのか!結末はどうなったのか!

昌泰の変とは、藤原時平が醍醐天皇に報告した「菅原道真の今天皇の排斥はいせき計画」という嘘を信じた醍醐天皇による一連の処罰のことを言います。

菅原道真は、藤原一族の力をそぎ落としたい宇多うだ上皇と藤原家の戦いの被害者ともいえます。

 

こんにちは。
(株)合格のヒロキタ・マイです。

神社仏閣が好きすぎて、太宰府天満宮の参道にある会社に就職した個性的すぎるアラフォー女子です。

そんな私が、菅原道真公と昌泰の変の関係について詳しく解説していきます。

菅原道真を太宰府に左遷!昌泰の変の原因と結果をわかりやすく解説!

昌泰の変は、「天皇家による親政しんせいを復活させたい宇多天皇+菅原道真」VS「藤原家による摂関政治体制を維持したい藤原時平ら藤原家+醍醐天皇」による争いが表面化した事件です。

菅原道真を太宰府に左遷!昌泰の変の原因と結果をわかりやすく解説!

宇多天皇は、絶大な権力を握っていた藤原基経の娘である藤原温子との間の子を皇太子に指名せず、醍醐天皇が誕生しました。

藤原家の血筋には、わが子であっても関係ないっ!

そんな覚悟を感じますね。

ちなみに、醍醐天皇は、宇多天皇と藤原胤子(ふじわらのいんし)との間の子です。

そして、醍醐天皇には自分の妹・為子内親王(ためこないしんのう)を妃として迎えさせ、その子を皇太子に指名することで、藤原家を外戚から外すことを明らかにしました。

それって、自分のおばさんと結婚したってことじゃ・・・

って、現代で考えるとびっくりですけど、昔は珍しいことではなかったようです。

しかし思惑は外れ、醍醐天皇と為子内親王の子は幼くして亡くなってしまいました。

宇多上皇(天皇の身分を次席の者に渡した後に元天皇が付く役職)の狙いに気づいた藤原時平は醍醐天皇を抱き込み、妹の藤原穏子(ふじわらのおんし)を醍醐天皇の妃にしてしまったのです。

どんだけ身内を売んねんっ( `ー´)ノ

このことで、宇多上皇と藤原時平を含む藤原家は一触即発の関係になり、ある時を迎えます。

それは・・・

宇多上皇が、醍醐天皇の弟であり道真の義理の息子でもある斉世親王(ときよしんのう)を皇太子する計画があるという噂が広がり、藤原時平はその風聞を醍醐天皇にあたかも真実のように報告してしまったのです。

醍醐天皇は藤原時平のその嘘を信じ、菅原道真から権力をはく奪、太宰府への左遷を一方的に命じたのでした。

この事件の結果、左遷させられた菅原道真公だけの問題ではなく、宇多上皇が阿衡事件で思い知らされた藤原家の絶大な権力を復活させることにまで至りました。

ところで、このとき宇多上皇はなにをしていたの?

そんな疑問が頭をよぎるのですが、このような喫緊のタイミングで宇多上皇は出家してしまったのです。

宇多法皇(うだほうおう)の誕生です。

そうなると、政治よりも寺で仏に手を合わせる時間の方が増えていき、だんだんと政治からは遠ざかっていったようです。

  • 醍醐天皇と為子内親王の子の早世。
  • 宇多上皇の出家。

藤原時平は、このふたつのチャンスを見逃さず、藤原家の天皇家に対する影響力の維持に成功したのです。

ほんの束の間・・・

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昌泰の変で得をした人、損をした人!

菅原道真を太宰府に左遷!昌泰の変の原因と結果をわかりやすく解説!

昌泰の変は、宇多天皇が藤原を外戚から引きずり落とすための策略と藤原家の生き残りをかけた壮絶な戦いでしたが、藤原家の勝利にいったんは決着がつきました。

権力争いはいつの時代も避けては通れなかったでしょうが、今回は誰にメリットが・・・

変が起こり、得をした人の筆頭はまず藤原時平でしょう。

排斥した菅原道真が健在の頃から左大臣として政治的な発言力では1、2を争っていましたが、妹の穏子が醍醐天皇の女御になってからというもの、外戚としての地位を再び不動のものとしました。

また、学問の世界で菅原道真公のライバルと目されていた大蔵善行(おおくらのよしゆき)という人は、実は藤原時平の一派であり、菅原道真公が太宰府へ左遷されてからはその勢力を拡大させ、一方の菅原道真公の門下生たちは追放されてしまいました。

昌泰の変の結果として、上記のような得をした人、損をした人に分かれましたが、それも数年後の藤原時平の死によって、あっけなく終わりを迎えることになりました。

結論からすると、得をしたのは藤原時平およびその一族、損をしたのは宇多法皇、菅原道真公と門下生などです。

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昌泰の変の首謀者・藤原時平と菅原道真は26歳差!

左大臣としての藤原時平、右大臣としての菅原道真は、ともに力を合わせてときの天皇を支え、国を栄えさせる重要な任務についていました。

しかしなんと、その年の差26歳!

藤原時平は29歳の時に左大臣に、菅原道真公は55歳で右大臣に昇りつめました。

いまの日本でいえば、第4次安倍第2次改造内閣で環境大臣として、田中角栄以来男性最年少(38歳)で入閣した小泉進次郎さんと同内閣で法務大臣を務め贈賄で失脚した河井克行さんの関係のようなものでしょうか・・・ちょっと違うかっ

901年に起こった昌泰の変で、天皇家の外戚に返り咲き、目の上のタンコブである菅原道真を都から追い出した藤原時平は、父である藤原基経の残したシステムと地位を盤石のものとし、この世の春を若くして味わいました。

しかし、ほんの数年後の延喜9年(西暦909年)、39歳で亡くなります。

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まとめ

昌泰の変は、権力闘争をしていた菅原道真公と藤原時平との戦いが表面化したもの、そんなふわっとした雰囲気で現代では話されることが多いのですが、実はそんなシンプルな構図ではなく、多くの人の思惑が複雑に入り組んだ結果、政治的にたくさんの犠牲者を出した出来事でした。

実際の親子である宇多天皇(父)VS醍醐天皇(子)
親子くらい年齢の離れた菅原道真(57歳)VS藤原時平(31歳)
という構図でした。

犠牲者でしかなかった菅原道真公なのに、後の世で祟り神の汚名を着せられ、さらに時を経て学問の神様として崇められることになったという・・・

藤原時平と菅原道真公、実は良好な関係であったという説もあります。

遣唐使を廃止したことで、収入を減らされた貴族たちの恨みが起こした変であるという考えの人もいます。

結局、無実の罪で追われた菅原道真公の名誉のために、多くの書物は焼き捨てられたようなので、真相は闇の中です。

ですが、現在、私たちの成功を願い、支えてくれているイメージの中の菅原道真公像は、愛に満ちて輝いて見えるのは私だけでしょうか?

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

(株)合格

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